「いごこち」の正体はなんだろうか、安らぎか、安寧か。

「いごこち」の正体はなんだろうか、安らぎか、安寧か。

「日々幸せでなくても「いごこち」はある」と、幸福への道程に「いごこち」があると実感したりもする。幸福をまぎらせる方便なのかもしれない。

「いごこち」には怖さもある。

「いごこち」は現状を知らせ、経済力を誘惑する、螺旋運動。「いごこち」を手に入れるため「いごこち」を脱出し、闘争にむかう。そして次のレベルの「いごこち」へ。しかし本当は、「いごこち」が意識されると厄介なことになる、闘いは鈍くなり、「「いごこち」に惑溺したら頑張らなくなってしまう」と恐れられる。

「いごこち」は確かにある。

しかしどうやってそこにあることが確かめられるのか、自分のものはおぼろげにありやと思うこともある。だが、それもおぼろげなのは、「安らがない日々もあとからみれば安らいでいた」ということだってあるからだ。

では他人様の「いごこち」は?

語ってもらうか、その表情やすがた・かたちで読み取るしか方法はなさそうだ。

ひとまず、わたしたちは、「いごこち」とは他(人)を無意識のうちに意識して、おのおのそれぞれの存在場所をフィットさせながら己の存在場所を考える、そうした生き方のありよう、と言っておこう。「いごこち」が個人的なものにとどまるどころではない。受けながら生きる、普遍的な生き方のひとつに属するのではないか。そしていま世界全体の存在場所に求められていることではないのか。

百人百様の、正解もない、「いごこち」の考え方、あり方を世界全体のために持ち寄ろう。

この世の「いごこち」を持ち寄ろう、素晴らしい「いごこち」についても語り合おう。

いやその前に「いごこち」をどのように考えるか語り合おう。それは、自分を振り返ったり、人生設計をする、人生そのものについて語ることであろう。

持ち寄り、私たちの多様性と共通性を再びしかと握り締めるなら、みんなの、たとえば公共的な「いごこち」のやや一方的な積上げ型の議論を豊かにするかもしれない。

「いごこち」を語ることは、体験や経験の記憶をたどる文学のいとなみでもある。したがってひとつの文学を読み解く鍵にもなろう。このような言葉に近づくことで、環境の見直しや豊かさへの果てしない径への扉が開かれると信じよう。 もう一度、奥深い女性原理の探求にも扉を開くかもしれない。

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