わたしたちは、「いごこち(居心地)」という日本語をもつ。

わたしたちは、「いごこち(居心地)」という日本語をもつ。

わたしたちは「いごこち」が気になっているのだ。

もちろん「いごこち」を意識しなくても生きられる。

本当に「いごこち」のいいところでは、「いごこち」が意識されないだろう。「いごこち」を意識せずに自然に「いごこち」を選んでいる。ところが、いま、「いごこち」を意識せずにはいられない、

わたしたちは、「いごこち」の悪さとしかいいようのない日々を暮している。空気・水・土壌の汚染、安心・安全な場所も狭まり、便利さもほどほどに得て、狭い快適な場所にいられるようにもなりながら、超管理社会、競争下、監視社会、警戒心をもって、家の中・社会・世間、学校・会社、故郷・異郷にある。大人とこども、親と子、夫婦、異性、ひととひとの関係もぎくしゃくして。

無力感は充満している。そして求めて得られるのは「束の間のいごこち」。

「いごこち」は普通「私のいごこち」と言われるように、非常に個人的で犯し難いもののように思われる。

しかし考えてみよう、はたしてその「私のいごこち」が本当に「私」のものだろうか。

その思い、判断は果たして自分から独自なものとして発せられているのだろうか、そう問われるなら、そもそもこの私そのものが定かではない気がするではないか。  この私の思いがどこからきたのか、まったく自分ひとりで生み出しているのだろうか。先祖の思いも受け継いでいるかもしれない。生まれてから教えられ学び取ったものが七割近くとも言われる。

関連記事