もし「居ごこちがいい」としよう。それは、本人しかわからない、というのであれば、もうこれ以上議論はいらない。
それでは、なぜここで取り上げようとするのか。
それは「居ごこち」は私たちの日常生活では、他人からもわかることがあるからなのです。
仮に金魚鉢の金魚をみてみよう、金魚が生き生きとみえるときがありますね、
ひとも、明るく生き生きとして動きもはつらつと見えるときがあります。
きっと、本人も居ごこち良いにちがいないだろうし、外から他人がみていても居ごこちよいようにみえる。
ふさぎこんでいたり、心ここにあらずであったり、心配事をかかえていたりしたら、どうだろう。
そんな時には、要するに、幸せそうにみえないはずですね。
前回にもあったように、「居ごこちよさ」は「幸せそうにみえる=実際幸せである」ことです。
「幸せ感」という感情が「居ごこち」にはキーポイントのようです。