この会議室としての庵は、所長(安原喜秀)と老練大工さんとの共同作業でできたものでした。
自分の育った実家を取り壊した跡に、その実家をつっくっていた古い材目を再利用したものです。
根太や母屋などは1946年から2013年まで、57年もの間耐えていたものなので、まず全体の骨組みをつくるのには十分でした。
もう亡くなってしまった、あの大工棟梁。
彼は現役を離れていしまっていて、まるで人生最後の作品とでも思っているように、一所懸命でした。
できるだけ再利用しようと、旧家の障子や扉やガラス障子や雨戸や、ヒノキの床材、杉の天井板などを使いました。
毎日、ふたりでつくった思い出は懐かしいばかりです。
一番上の棟木を乗せるときには、棟梁はどんどん梯子をさきにのぼり、さいたでささえていた自分はあまりの重さに死ぬかとおもうほでおでした。
旧家そのままの濡れ縁。それは竹を割った桟がとびとびに入れられた風情のあるものでした。
様式といえば、四畳半に床の間と水屋と便所がつけられた小さな庵でしたが、まんなかに炉も切り、躙り口も設けて、開放的な茶室風情です。
ここは、人に聞かれては好ましくない話し合いをするのには 、気持ちの良い絶好の場所となっています。