「はじめに~なぜ居心地(居心地)なのか」
わたしたちはいまや自分自身の「存在場所」そのものが危ういと感じるようになり、そのことに声を大にするようになった。
地球規模のその危機が叫ばれてから半世紀たち、この地球を我家(ハビタット)のように、インテリアのようにと合唱してからも時が経つ。環境破壊、環境保護、サスティナブル環境、と環境時代と叫んでいる。
また、わたしたちの社会は規律で制御する社会であるにもかかわらず、誰が誰をと指定もできないが、たがいに管理し管理される社会になった。働く現場も、いたるところで管理の仕事が増え、管理が大手を振っている。それは私たちをさらに恐怖・不安に駆り立てている。
こうして、いつの間にか、「実存」や「アイデンティティ」ということばに替えて、「いごこち」「癒し」「居場所」ということばが普通になっている。
わたしたちは、「いごこち(居心地)」という日本語をもつ。
わたしたちは「いごこち」が気になっているのだ。
もちろん「いごこち」を意識しなくても生きられる。
本当に「いごこち」のいいところでは、「いごこち」が意識されないだろう。「いごこち」を意識せずに自然に「いごこち」を選んでいる。ところが、いま、「いごこち」を意識せずにはいられない。
わたしたちは、「いごこち」の悪さとしかいいようのない日々を暮している。空気・水・土壌の汚染、安心・安全な場所も狭まり、便利さもほどほどに得て、狭い快適な場所にいられるようにもなりながら、超管理社会、競争下、監視社会、警戒心をもって、家の中・社会・世間、学校・会社、故郷・異郷にある。大人とこども、親と子、夫婦、異性、ひととひとの関係もぎくしゃくして。
無力感は充満している。そして求めて得られるのは「束の間のいごこち」。
「いごこち」は普通「私のいごこち」と言われるように、非常に個人的で犯し難いもののように思われる。
しかし考えてみよう、はたしてその「私のいごこち」が本当に「私」のものだろうか。
その思い、判断は果たして自分から独自なものとして発せられているのだろうか、そう問われるなら、そもそもこの私そのものが定かではない気がするではないか。
この私の思いがどこからきたのか、まったく自分ひとりで生み出しているのだろうか。先祖の思いも受け継いでいるかもしれない。生まれてから教えられ学び取ったものが七割近くとも言われる。
「いごこち」の正体はなんだろうか、安らぎか、安寧か。
『日々幸せでなくても「いごこち」はある』と、幸福への道程に「いごこち」があると実感したりもする。幸福をまぎらせる方便なのかもしれない。
「いごこち」には怖さもある。
「いごこち」は現状を知らせ、経済力を誘惑する、螺旋運動。「いごこち」を手に入れるため「いごこち」を脱出し、闘争にむかう。そして次のレベルの「いごこち」へ。しかし本当は、「いごこち」が意識されると厄介なことになる、闘いは鈍くなり、「「いごこち」に惑溺したら頑張らなくなってしまう」と恐れられる。
「いごこち」は確かにある。
しかしどうやってそこにあることが確かめられるのか、自分のものはおぼろげにありやと思うこともある。だが、それもおぼろげなのは、「安らがない日々もあとからみれば安らいでいた」ということだってあるからだ。
では他人様の「いごこち」は?
語ってもらうか、その表情やすがた・かたちで読み取るしか方法はなさそうだ。
ひとまず、わたしたちは、「いごこち」とは他(人)を無意識のうちに意識して、おのおのそれぞれの存在場所をフィットさせながら己の存在場所を考える、そうした生き方のありよう、と言っておこう。「いごこち」が個人的なものにとどまるどころではない。受けながら生きる、普遍的な生き方のひとつに属するのではないか。そしていま世界全体の存在場所に求められていることではないのか。
百人百様の、正解もない、「いごこち」の考え方、あり方を世界全体のために持ち寄ろう。
この世の「いごこち」を持ち寄ろう、素晴らしい「いごこち」についても語り合おう。
いやその前に「いごこち」をどのように考えるか語り合おう。それは、自分を振り返ったり、人生設計をする、人生そのものについて語ることであろう。
持ち寄り、私たちの多様性と共通性を再びしかと握り締めるなら、みんなの、たとえば公共的な「いごこち」のやや一方的な積上げ型の議論を豊かにするかもしれない。
「いごこち」を語ることは、体験や経験の記憶をたどる文学のいとなみでもある。したがってひとつの文学を読み解く鍵にもなろう。このような言葉に近づくことで、環境の見直しや豊かさへの果てしない径への扉が開かれると信じよう。
もう一度、奥深い女性原理の探求にも扉を開くかもしれない。