居心地研究所の裏の高まったところに「桜樹庵」がある。
出来上がったのは昨年六月である。
八〇歳を超えていた年季の入った棟梁と私二人で、四カ月かかって建てた。
主な材木は、そこに在った戦後間もなく建てた木造あばらやの実家、をつくっていたもの、である。
その家は、お金の無い両親が、ローンなどのない時代に、知人から借金をして手にした七坪半の小さな家だった。
やっと自分たちの家だという喜びがあった。
そこは東京都はいえ南多摩郡町田町成瀬大字といっていたような都内からは遠く離れていたこともあって、電気、水道、下水道、ガスなど、全くインフラの無い場所で井戸と肥えだめも敷地内にあった。
トントン屋根葺き、玄関無く、真中の八畳に一家四人が川の字になって寝る、あと出窓付きの二畳の部屋、土間の台所、風呂場は吹きっさらしといった粗末な家。
その実家を壊す羽目になって、山のような廃材として材木が出てきた。
当然材木も決して高価なものではなかったのに、それでも当時のままに、ほとんど加工せずに柱や梁、母屋材などが、そのまま使えた。
圧巻だったのは、切妻屋根を支える三角の小屋組み部分の頂点をなす太い丸太の母屋材、これをそのまま使おうと言うことになって、なんの重機もなく棟梁と二人で持ちあげて載せた。
棟梁が先端を持ちどんどん梯子を上ってかついで上がろうとする。自分はその後端部を持ちあげ、ついて登ろうとするも余りの重さに度肝を抜いた。手も離せず、(離したら棟梁ともども落ちてしまう)火事場の馬鹿力以上の力をだしてあとに従う。つぶされて死んでしまうかと思うほど。あんなに必死になって力を出したのは初めて。
ちいさな庵となった。
水やとトイレが後ろについて四畳半の畳敷きの部屋。掘りごたつも切って、主に室内を造る南の正面には、かつて使っていた四枚のガラス戸、今はもう作れない格子状にガラスの入った戸である。雨戸も再利用。濡れ縁も、竹材を間に入れての前の家そのままの珍しいデザイン。天井板は、前の「八畳の間」からごしごし洗ってきれいにした再使用材。
押し入れや扉に使っていた板戸も今はなかなか創りにくい桟入りの板戸。障子は寸を直して小窓や仕切りに使う。壁は家族と二人で珪藻土を塗る。
四畳半は出窓付きにして広く見せ、床の間は神棚と兼用にしたような挑戦的なもの。
前庭には、樹齢八〇年余にならんとする太い桜樹が残り、南のガラス度を開けるとその大木が眼の前に迫ってくる。この樹をなんとか残そうとしたものである。
棟梁は朝早くから40分掛けて通ってきて、その日必要なちょっとした材料や金具や釘類などを、ホームセンターに立ち寄っては買ってきた。仕上げ材も、内外とも全部、そうやって買ってきたもので、主にスギ材などの無垢材を使っていった。