なぜ、いま「いごこち」なのか
日常の生活空間である住み場所の危機が叫ばれてから半世紀たち、私たちはいまや私たち自身の存在場所そのものが危ういと感じ、そのように発するほどになってきた。わたしたちは、いつの間にか、一時流行をみた「アイデンティティ」や「実存」ということばをわきにおき、「みずからの居場所」などという言葉を使うようになっている。「自分の居場所を探し続けて生きている」とか。
そこでの居場所とは単に「居るところ」ではない。いまや「いごこちの良い生活場所」にまで意味もひろがり、職場さがし、生活のための有機的な職場と住まいのあり方までを含んでいたりする。
わたしたちは、「いごこち(居心地)」という微妙な含蓄をもつ日本語を持っている。日本が開国され西欧文明を積極的に取り入れようとしていた明治時代の末期にこのことばは使われはじめたようだ。
あるところ、ある場所、ある空間の心地よさを指すかと思えば、人と人との係わり合いのなかでの微妙な心地よさ、かと思えば、日々のあれやこれやの局面で、「心地」の置き所に窮してしまったり当を得たりという場合に。
その場所や空間とはどこのことか。大変に小さな確立のもとに誕生した惑星上の、小さな確立で生まれている「命」。
わたしたちは、誰しも生まれようとして生まれてきた人はいない。ここにあるものとして生きていかなければならない。どこからか自分の「いのち」はやってきて肉体の「命」と合体するために、きっと安らかな胎内で眠りについて、いずれまたその「命」を灰にして「いのち」は実在と一体になるべくかえっていく。大地とともにある生物であり、自然の理法に生きる。
でもなぜ、いま「いごこち」が問題になるのだ。
どうして「いごこち」を意識しなければならなくなったのか。
よく「いごこち」は「私のいごこち」と言われるように、個人的なもののようにとられているが、はたしてその「私のいごこち」が本当に「私」のものだろうか、その思い、判断・・は果たして自分から独自なものとして発せられているのだろうか、そう問われるなら、そもそもこの私そのものが定かではない気がするではないか。判断の実行はたしかに「私」がするかもしれないが、判断のもとになった知識や思いははどこからきているのか。
この私の思いがどこからきているのか、まったく自分ひとりで生み出しているのだろうか。先祖の思いも受け継いでいるかもしれない。炉辺の火を飽きずながめていたり、水の流れに知らず脚を止められたりするのだから、古代の人間の思いすらどこかにひきずっているかもしれない。また、いとも自然に温かく包んでくれるところを好み、渇望する。
少なく見積もっても六割を生まれてから教えられ学び取ったものだそうである。ひとびとが教え育てあい、氾濫する情報から知識も得る。
「いごこち」のために人は個人的に生活の判断をする。
一方、私たちは環境といわれることばによって、みずからの具体的な生活空間をみなければならなくなっている。環境が安全であるのか、健康に適しているのか、便利であるのか、快適であるのか、文化的な豊かさを備えているのか、と。そのようなひろく公共性の強い空間については人々の叡智は積上げ型となることが一般的である。たとえば安全といっても、空間の安全を手にするためにはさまざまな個別の事項が考えられる。分解した個別の専門によってそれぞれが研究されて、またその結果が寄せ集められて全体の安全性として判断される。(分析的科学知=西欧知)
そうした積上げ型の判断ともちがう。
「いごこち」の正体はなんだろう、安らぎか安寧か、落ち着きか、幸福感か、波風立たぬ穏やかさか。瞬時に全体をつかみとる総合的な判断か。えもいわれぬ雰囲気や空気をも取り込んだ貴重さ。
幸せでなくても「いごこち」はある。例えば散歩にだって。といわれるとき私たちは、たたずまずにはおれない。幸福の道程に「いごこち」があるのか。
「いごこち」には怖さもある。
「散歩は快楽ばかりではない、悲哀やせつなさを感じるものだ」と永井荷風は伝えた。そのいごこちの深い不思議を教える。
「いごこち」は現状を知らせ、経済力を誘惑する、螺旋運動。いごこちを手に入れるため「いごこち」を脱出し、闘争にむかう、そして次のレベルのいごこちへ。しかし本当は、「いごこち」って意識されると厄介なものになる、そんなことはおおいにあることだ。
ひとまず、わたしたちは、「いごこち」とは他(人)を無意識のうちに意識して、おのおのにそれぞれの存在場所をフィットさせながら己の存在場所を考える、そうした生き方のありよう、と考える。「いごこち」が個人的なものにとどまるところではない。
「いごこち」は確かにある。
しかしどうやってそこにあることが確かめられるのか、自分のものはおぼろげなこともある。だが、それもおぼろげなのは、「安らがない日々もあとからみれば安らいでいた」ということだってあるからだ。
では他人様の「いごこち」は?
語ってもらうか、その表情やすがた・かたちで読み取るしか方法はなさそうだ。
この世の「いごこち」を持ち寄ろう、素晴しい「いごこち」について語り合おう。
「いごこち」をどのように考えるか語ってもらいたい、人生そのものについて語ることにもなるだろう、自分を振り返ったり、人生設計をするのはごくごく普通のことなのだから。
持ち寄り、私たちの多様性と共通性を再びしかと握り締めながら、みんなの、たとえば公共的な「いごこち」の豊かさにもつなげていこう。
「いごこち」を語ることは、体験や経験の記憶をたどる文学的営為である。ひとつの文学の華も開こう。また、いま言葉による創造が、環境の見直しと豊かさへの行程の扉を開くと信じる。
環境と居心地
ひとは、みんな「いごこち」を持つ。どんなときにも、どんな場所でも、人と人の間でも「いごこち」を持つ。老若男女、それぞれの「いごこち」があり、多種多様。みんな「私のいごこち」こそ自分の砦だと思う。そしてひとは「いごこち」をもとめて行動する。いまの自分の「いごこち」、「いごこち」を求めてきた人生のあゆみ。家庭でも、学校でも、職場でも、いつでも「いごこち」を求めている自分に気がづく。
川や海や山や、林や森や、都会も農村も郊外も、そんな具体的な生活場所である環境、その環境が私たちにとってどうなのか。私たちは、その良し悪しを、瞬時にひとつの言葉、「いごこち」で判断することも多い。「いごこち良いね」「悪いね」と。
重ねられたデータの数々によってできた環境の冷たい顔、私たちはそのようなものだけでは生きていけないとき、その環境を自分の手元に引き寄せ馴染ませるのに、この「いごこち」を口にする。
これからの時代、環境の質の良し悪しを思いはかるには、この「いごこち」という言葉はとてもかけがえの無いものに思える。なぜなら、たとえば環境には、安全・便利・快適という価値が尊ばれる、現代の科学技術によって、どんどんそれを実現しようとする傾向がみられる、けれども極端にすすめられる、技術信仰ともとれるその姿は大きな矛盾をはらんでいる。 それら技術に頼れば頼るほど、環境の破壊を促進し、目先を思う人間にしっぺ返しとして跳ね返ってくることも多いからだ。人間の心の方を見つめなければこの循環はとまらない。そうなると人間は心のどこかで、「満足」の折り合いをつけざるを得ない、その仕方の修練を積むよう、迫られている。それには自然との共生を再確認し、自然に助けてもらう必要もある。 自然に接しわかる怖さ、神秘、偉大さ、いのち、その輝き、生きる力を修練の土台にしよう。
いまこそ「いごこち」に着目し、「いごこち」とは何か、を問おう。そのひろがりはとっても広いけれど、「いごこち」を問えば、環境も人間のあいだも見直せてそうだ。
みんなそれぞれの「いごこち」良さや、悪さが違ってもいいじゃないか、違うから広い、「いごこち」という言葉があるから出しあえる。そこから始めよう。自分の、ホっとし心休まる場所、寛げ、穏やかになれるときの、「いごこち」の良さ。ここから世界へ、この場所から未来へ、「いごこち」は未来を開くひとつの鍵になるはずである。
「環境に心を」なのである。